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自動詞・他動詞の区分はよく知られていますが、動詞の分類にはこれ以外にもいくつかあります。wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E8%A9%9E )には動詞の分類として、
1.結合価による分類(自動詞・他動詞)
2.相による分類
3.意志による分類
4.視点による分類
以上の4つが紹介されています。この内、3番目の「意志による分類」は日本語において非常に重要ですからここで紹介しておきます。
これらはいずれも下の方向への移動を表す言葉です。表にまとめると次のようになります。
自動詞 | 他動詞 | ||
降・下 | おりる | おろす | 意志動詞 |
落 | おちる | おとす | 無意志動詞 |
漢字の組み合わせで行くと、「降りる・降ろす」が一つのグループ、「落ちる・落とす」がもう一つのグループになっているのが分かります。これよりそれぞれを「降」「落」と呼びましょう。「降」には自動詞の降りる、他動詞の降ろすがあります。また、「落」には自動詞の「落ちる」と「落とす」があります。ですから、「降」「落」の違いは自動詞・他動詞の区分ではありません。では何が違うかというと、「意志の有無」になります。「降」は意志がある方です。「階段を降りる」「荷物を降ろす」など、そこには動作するものの意志が働いている。降りる人・降ろす人はその動作を知っていて、あるいはわざとやっている。ところが、「穴に落ちる」「財布を落とす」のように、「落」にはその動作をしようとする意志がありません。知らずに落ちたり、うっかり落としたりしたのです。
ここで注目して欲しいのは「降」と「落」が自動詞・他動詞の区別にならず、意志動詞・無意志動詞の区分になっている点です。つまり、我々日本人にとって自動詞・他動詞の区別よりも意志動詞・無意志動詞の区分の方が優先しているということです。
さて、ここまで読んだ皆さんの中には中国語の「降」と「落」に意志・無意志の違いがあるのではないか、と考える方がいると思います。しかしそれは違います。
もちろん漢語でも「降」も「落」も下への移動の意味ですが、「落」は地面に付き「降」は付かないのが元の違いで、ここで取り上げた意志による分類とは無関係です。その証拠に、中国では出口に「落」と書いているバスがあります。バスの出口は地面まで段差がありますから、しっかり足が地に着くように「落」になるわけです。日本人はそれを見て、出口から転げ落ちるように思えておかしく感じますが、中国人は逆に「降」と書いてあると足がフワフワして地に着かない気分になるかもしれません。
ではなぜ、「落ちる」「落とす」にしてしまったのか。これは元の「落」に「落第」「落選」などの熟語があるからです。これらの語は「物体の落下」ではなく「ランクが下がる」ことですが、同時に「失敗」の意味も含んでいます。「おちる」に「落」を割り当てた古代の日本人が着目したのはこの部分です。
つまり、本来「落」は「地面におりる」「段をおりる」ことだが、同時に「落」には失敗の意味がある。そうなると「失敗して下に移動した」のは「おりる・おろす」ではなく「おちる・おとす」がふさわしい。だから、「落ちる・落とす」と書きましょう、となったのです。
ですから、ここで、強調したいのは日本人は中国の漢字を日本語に当てはめて訓読みするときに、自動詞・他動詞の区別よりも意志と無意志の区別を優先したということです。だからこそ、上の表のように意志動詞には(自動詞・他動詞とも)「降」が使われ、無意志動詞には「落」が使われているのです。
このように日本語においては意志動詞・無意志動詞の区分がかなり重要視されてきました。そこで、本来でしたら、意志動詞・無意志動詞についてきちんと文法的な解説するのが筋なのですが、ここからはちょっと寄り道したいと思います。なぜかというと、理由は二つあります。
一つは意志動詞と無意志動詞の区分は時代が下がるにつれてどんどん曖昧になってきていること。
もう一つは、文法的な解説始めると単語(動詞)だけの話ではすまないと言うことです。例えば英語文法で過去形があります。went は go の過去形。中学校段階ではこれで終わりです。ところが高校へ行くと仮定法過去が出てきます。仮定法の時は「過去形だけど過去じゃない」わけです。
これと同じ事が日本語にもあります。特定の文型では、無意志動詞を使っているけど非常に強い意志を表す場合すらあります。ですから、正攻法で解説すると、例外が山ほど出てきて収拾がつきません。そこで少し楽しい?話題から入ろうというわけです。
皆さんは「飛んで火に入る夏の虫」という言葉を聞いたことがあるでしょう。問題は「火に入る(いる)の入る」です。現代では「入る」は「はいる」と読みますが、ここで出てきた「火に入る」は「いる」で「はいる」とは読みません。なぜなら「はいる」は「風呂にはいる」のようには通常、意志動詞として使います。ところが「いる」は元々無意志動詞でした。ですから、このことわざは「光におびき寄せられた虫が危険とは知らずにうっかり火の中に飛び込んでしまう」様子を表しています。
現代の辞書には「自分から進んで災いの中に飛び込むことのたとえ。」とされていますが、本来の意味からするとこれは間違いです。一昔前の映画などで、さらわれた姫を追って来た主人公に向かい、悪漢が「飛んで火に入る夏の虫とは貴様のことだ!」とすごむ場面がよくありました。これは「危険を承知で立ち向かってきた勇敢な主人公」を褒めているのではありません。「姫のピンチに目がくらみ、うっかり罠にはまった愚かな主人公」を馬鹿にしているのです。
補足しておくと、「入(はいる)」が自動詞、「入れる」が他動詞です。どちらも普通は意志動詞ですが、「ピーナツが入ったチョコ」のように無意志動詞で使うこともできます。ただ、無意志で「入った」ことを明示したければ、「立ち入り禁止区域にうっかり入った」のように副詞を添えたり、「入ってしまった」のようにすれば良いのです。また、日本語以外の言語のほとんどが単語(動詞)で意志・無意志の区別をしません。必要があれば、副詞や助動詞で意志を表すのが一般的です。
「入(いる)」は動詞としては死語ですが、熟語としては残っています。思いつくままですが、「日の入り」「果汁入りのジュース」等の例で良いかと思います。「日」「果汁」には意志がありませんから、「入(いる)」は無意志動詞としておきます。
ここでは「入(いる)」が「入(はいる)」になったように、時代と共に形が変化した動詞がたくさんあること。そしてその時に意志・無意志の区分が変化したり、曖昧になったりすることがある事をまず、知っておいて下さい。
もう一つ例をあげます。「為せば成る」は米沢藩主、上杉鷹山の言葉として有名です。「やればできる」の意味とされていますが、もう一つ意味がよく分からない、「やればできる」って当たり前すぎてどこがすばらしいのか理解できないという人も多いです。
元々「なる」は「リンゴの実がなる」・「雪が溶けて川になる」のように自然にそうなるの意味の無意志動詞でした。「なす」と「なる」は、後で説明しますが、対の言葉で「なす」は意志動詞です。ところがこの文で使われている「なる」が無意志動詞であることが現代では不明瞭になっています。
ですから、「なせばなる」を意訳すれば「やるべきことを、がんばってやれば(=なせば)、物事は春になって氷が溶けるように、秋に木が実をつけるように自然に成功する(=なる)」となります。孫子のいう「戦う前に勝つ」と同じ趣旨の奥が深い言葉です。
ではなぜ無意志動詞が曖昧になったのでしょうか。その原因の一つが漢文です。先に「なる」の例を出しましたので漢文の「成」を見ましょう。
例えば論語の「少年老いやすく学成り難し」に「成」があります。この「成」を「なる」と読みますが、それでいいでしょうか?先に述べたように中国語の動詞は意志・無意志の区別をしません。ですから、この語は「なる」「なす」のどちらか、あるいは両方の意味を持っていることになります。ところが、日本語の場合は「成」をどちらかにしか表現できません。
これを「なす」と解釈するとA.「学問を成就させることは大変難しいことだ。」の意味になります。
これを「なる」と解釈するとB.「学問は(普通のやり方では)成就しないものだ。」の意味になります。
日本人が漢文に親しんで千数百年たちます。その間いろいろな漢文訓読のルールを作って来ました。上の例では実はAの解釈の方が正しいのです。ところが訓読法では「成」は「なる」、「為」を「なす」と読むルールがありますので、「学難成」は「学なり難し」と読み、「なす」の意味で理解する。そういうことをずっと続けて来たのです。
これはある意味正しい方法ですね。すでに知っている文ならまだしも、初見で「学難成」の「成」を「なる」「なす」に読み分けることは絶対に不可能です。繰り返しになりますが、中国語では意志動詞・無意志動詞の区別はありません。まあ、漢文に慣れた人なら「成」の前に「難」がありますからこの「成」が意志動詞であることは大体わかります。しかし、100%の確信は持てないはずです。だから、とりあえず「成」は常に「なる」と読み、「意志・無意志」は解釈の段階で考える。これが漢文訓読のルールでした。
ただ、千年は長すぎました。『漢文を読む際は動詞の「意志・無意志」の区別しない』という訓練を日本人はずっとやってきたわけです。その間に漢語が日本語にたくさん取り入れられたこともあります。また、孔子や仏教経典へのリスペクトもありました。その結果、漢文(訓読)が日本語を変化させ、「意志・無意志の区分」を曖昧にしてしまったのです。
二つ目の原因は敬語です。全般的に「なる」に代表される無意志動詞は「尊敬語」に転用されます。無意志動詞は「春になって氷が水になる」のように大きな力が働いて、「自然にそうなる」の意味でよく使われます。昔風にいえば天の力とでもいいましょうか、それが偉い方への敬意に値すると考えられたのでしょう。
ただ、これだけは知っておいて欲しいのですが、「無意志動詞」=「尊敬語」は比較的新しい用法です。以下に例を挙げます。これ以外は「敬語一覧表」で色々検索してください。
普通語 尊敬語(現代) 尊敬語(古語)
思う お思いになる おもほす
与える お与えになる(下さる) たまふ
やる・行かせる おつかわしになる(行かせなさる) つかはす
呼ぶ お呼びになる めす
着る・乗る おめしになる たてまつる(めす)
上の語を見てわかるように現代語の「お〜になる」が古語では、「おもほす・たまふ」等、それぞれ意志動詞になっています。これを見れば、少なくとも平安時代は「無意志動詞」=「尊敬語」ではないことがわかっていただけたと思います。また、ちょっと乱暴な並べ方ですが、それぞれの時代でよく使う尊敬を表す補助動詞を並べると次のようになります。
○○あそばす(室町時代) ⇒ (お)○○なさる(室町後期〜江戸時代) ⇒ お○○になる(江戸末期〜)
下の表と合わせて見ていただきたいのですが、無意志動詞由来の「お〜になる」が尊敬語の中心になったのは江戸時代の末期からです。
自動詞 | 他動詞 | 元になる言葉 ⇒ 補助動詞 | |
意志動詞 | なす | ○○+なす+る ⇒ 〜なさる | |
無意志動詞 | なる | お+○○+に+なる ⇒ お〜になる |
ここから「なさる」について、文法的な解説したいと思います。上の表の通りで「なさる」は「なす」+「る」ですから、まず「なす」について説明します。
「なす」という動詞は元々日本語には無く、漢文に触発されて造語されました。この動詞の元になったのは「為」の文字です。ここでは「轉禍爲福」という漢文の句を例にします。「轉」と「爲」が旧字体ですので新字体に改めると「転禍為福」となります。「転」は「変転」の「転」で変化すること、「為」は通常「ため」と読みます。「ため口」の「ため」で等しい、イコールの意味です。ですから直訳すると「禍(不幸)だったものが(幸)福へと等しく変化した」となります。古人の工夫により「 禍(わざわい)を転じて福と為す」と読むようになる言葉です。しかし、漢文が日本に入ってきたときは「なす」が無いのでこのようには読めませんでした。
この「なす」の成立過程をきちんと説明するのは大変難しいです。しかし、手がかりがあります。実は「転禍為福」の文は英語の第五文型であるSVOC型に当てはまります。ですから、これと比較すればなんとなくわかっていただけると思います。
以下英語の第五文型になる代表的な動詞とその訳です。
A.日本語にすると「OをCと○○」になるもの
call O C…OをCと呼ぶ
name O C…OをCと名付ける
find O C…OをCと気づく
think O C…OをCだと思う
B.日本語で「OをCに○○」になるもの
make O C…OをCにする
keep O C…OをCに保つ
elect O C…OをCに選ぶ
「転禍為福」は「転O為C」ですから、「禍を福に転ず」または「禍を福と転ず」となります。
ただ、これでは具合の悪いことがあります。皆さんが中学校の英語の時間に五文型を学んだと思いますが、その時先生がS V O C の O=Cということを強調されたと思います。漢文では「=」が「為」という言葉で表されています。ところが「禍を福に転ず」だと、「為」が無くなってしまいます。
また、上のBのように「OをCに○○」にすると、英語で言う第四文型と同じになります。
例) 第四文型の例 He gave me a book. ⇒ 彼は私に本をくれた
このように「に」や「を」をだけでは意味がわかりにくくなります。もちろん助詞を工夫する方法もあります。例えば「禍から福へと転ず」なら少しわかりやすいですし、第四文型と区別することが出来ます。ただ、これだと上の英文の例(call name…)に当てはまりません。「OからCへと呼ぶ、OからCへと名付ける」など順に試していただきたいのですが、意味が通じません。これでは漢文の読み方としては不十分です。「学成り難し」の時に説明したのと同じで、読み方は常に一定の法則に従わねばなりません。
そこで、当時に人が考えに考えて造ったのが、「なす」です。いや、造ったのは「なす」だけではありません。動詞にはそれぞれの構文が必要ですから「Oを○○してCと為す」の構文も同時に造った。
その手順ですが、本来の「為」はイコールの意味で、動詞ではありません。その「為」を動詞化して後ろに持ってきた。そして、本来の動詞の「転」を「禍」と「福」の間に入れた。
これで語順が「禍_転_福_為_」となります。「転」と「為」をどう読むか?まず、O=Cですから、「転じて_なる」を持ってきた。これで「禍_転じて福_なる」です。「なる」はもちろん無意志動詞です。
繰り返しになりますが、中国語では意志動詞・無意志動詞の区分がありません。もちろん「転」という動詞にも区分は無い。しかし、「転禍為福」に限ればこれは紀元前に書かれた戦国策のという書物に出てくる句です。原文は「聖人」が主語になります。そうすると「聖人は(禍_転じて福_なる) する」になります。「する」としましたが、これは口語で、文語に戻すと「す」になります。この「す」は漢語を動詞化するときに使います。そこで「なる+す」で「なす」が造語されました。
後は構文です、O=Cなので、並立の「と」を使った。これで「聖人は禍い(を)転じて福となす」となりました。上の英語の第五文型をこの方式で書き替えると以下のようになります。
call O C ⇒ Oを呼んでCと為す
name O C ⇒ Oを名付けてCと為す
find O C ⇒ Oを気づいてCと為す
think O C ⇒ Oを思いてCと為す
うまく当てはまりますね。こうして出来たのが漢文由来の新造語「為す」です。他の動詞とは違い、「A(を) ○○して Bと なす」の構文も同時に作ったところがポイントです。ここからは動詞「為す」が日本語に定着してゆきます。
例えば「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」等です。この例で注目したいのは助詞「と」が使われているところです。また、この例で「なす」を漢字にするならば「為」です。「城が守る」「人が守る」の関係になる所も押さえたいところですが、専門的になるのでここでやめます。
次の段階に進み「対をなす」「意味をなす」「事をなす」になると「為」の元であるイコールの意味がどんどん薄れてゆくので、漢文由来の文以外では「成す」と書くのが普通です。
ここからさらに「群れなす」「もてなす」等の複合動詞を造るようになります。この場合の「−なす」の意味は元の「なる+す」。つまり「なる」は無意志動詞だけれどこれに「す」を付けて意志動詞にしたものです。ですから「○○をつくる」「○○にならす」という意味になります。
この「−なす」に尊敬の助動詞「る」をつけて造ったのが「〜なさる」という尊敬の補助動詞です。
次にに文語の助動詞「る・らる」を解説しておきます。「る・らる」は無意志を意味する古語の助動詞で、口語では「れる・られる」に相当します。「る・らる」には[受け身][尊敬][可能][自発]の4つの意味があるとされます。
「別にやろうと思っていなかったのに勝手にそうなったのがなった」のが「自発」。
「自分はやるつもりが無かったのに他のやつがやっちゃった」のが「受け身」。
「偉い方はさすがに違います。ガツガツしなくても自然に事が成就してしまいます。」が「尊敬」。
「やらずに自然のままですから出来てませんけど、やったら出来るでしょう」が「可能」です。
以上の4つの意味ですがスタートが無意志の意味からでていることがわかると思います。
さらに補足すると、「○○なさる」の後ろに丁寧の助動詞「ます」が付くと「○○なさります」になりますが、通常「○○なさいます」と音便されます。
また、「(お)○○なさる」の命令形「(お)○○なされ」も「(お)○○なさい」と音便されるのが普通です。これは現代でも「勉強しなさい」などで使います。尊敬語だったのですね。また慣用的に「お帰りなさい」「お休みなさい」と挨拶の言葉で残っています。
話を元に戻しますが、「○○なさる」よりも「お○○になる」が優勢になったのは江戸時代も後期になってから。しかもこの用法は当時の江戸、現代の東京の言葉ですから、全国的に正しい語法として標準化されたのは明治以降です。これが標準語として全国に広まっていきました。次に「お○○になる」についての説明をしますが、現在使われていますので、注目してほしい点、特に欠点を二つほど紹介します。
まず一つ目は命令形が無い事です。「○○なさい」には先に述べたとおり「お話しなさい」「お勉強しなさい」のような命令形がありますが、「お○○になる」を命令形にして「お話しになれ」とは使いません。この時ばかりは「話なさい」に戻すか「お話し下さい」などの別の表現にする必要があります。ではなぜ、使えないかというと、「なる」が本来、「桃の木に実がなる」のように無意志の自動詞から来ているからです。無意志動詞は自然にそうなる、勝手にそうなるの意味ですから命令にそぐわない。「お話になれ」では話になりません。
二つ目は「お○○になる」の○○に漢語を入れにくいことです。日本語の場合、動詞は特定の助詞を伴って構文を作ります。「○○+に+なる」の構文は古くから有り、「この種は朝顔になる」のように使いました。このように○○には「もの」が入ったのですが、ところが次第に「ひと」にも使われるようになります。
さらに明治以降、英語の become の訳に「〜になる」を当てたことでこの傾向が加速します。becomeも意志・無意志の区分無く使いますので、これが徐々に日本語に浸透し「君は大きくなったら何になるの?」「私、ケーキ屋さんになりたい。」ように現代ではごく当たり前に使います。
また、最近では「○○王におれはなる!」のフレーズを良く聴きます。これは非常に面白いと思います。繰り返しになりますが「なる」は本来無意志動詞ですから、勝手になる、自然になる、努力せずになるの意味です。主人公の境遇を見れば全く間違った使い方なのです。しかし、この物語のようであれば、無意志動詞が逆説的に強い意志を表すのも有りだと思います。
以上のような事情で「漢語+になる」はここ数十年で使われなくなってきました。例えば「お勉強になる」にするとなにやら勉強に変身するようです。大変使いにくい。そこで、最近では「勉強なさる」に丁寧の「ます」を付けて「勉強なさいます」に戻す傾向があります。
以上のように「お○○になる」式の尊敬語には文法上の大きな欠点が二つもあります。
まとめます。まず、私が主張したいのは、日本語は意志動詞と無意志動詞の区分をきちんとすべきだと言うことです。ところが、漢語の影響と、無意志動詞を尊敬語に転用したのでその区分が曖昧になってしまった。残念ですが、これはもう元には戻せません。しかし、意志動詞・無意志動詞についてみんなが知ること、そしてなぜそれが元に戻せないかも含めてみんなで考える必要があると思うのです。
その中でもまずやるべき事は無意志動詞がなぜ尊敬語に転用されるのかということ。上に書いたとおりで、無意志動詞は「春になって氷が水になる」のように大きな力が働いて、「自然にそうなる」の意味でよく使われます。目上の人偉い人が事を起こすのは、昔風にいえば天の力とでもいいましょうか絶対のものだと言うことです。すなわち「お〜なる」式の敬語の真意は「あなた様はそのようにお考えです。しかし私ごときではあなたのお考えを忖度することなど恐れ多いことでございますから、とやかく言うことなどございません。」となります。
これでいいのでしょうか。戦前ならまだしも日本は民主主義の国です。ところがこれでは議論にならないです。また、組織に事件・事故が起こったときも「自然にそうなったのだ」と言って責任逃れします。「なったんじゃないでしょ、なさったんでしょ」と言いたくなりますが、普段から「お○○なる」と持ち上げられているとその気になってしまいます。せめて、「お○○なる」から「○○なさる」あるいは「○○なさいます」に戻すべきだと私は思います。
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