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歴史千字文

裸の王様

 初めて十七条の憲法を読んだ時、私は「忤」の文字を知りませんでした。意味はもちろん読むことも出来ません。 漢和辞典を調べて初めて読みと意味がわかり、「忤」では対句が成立しない事に気づきました。 私もその時は若くて先入観が全くありませんでしたから、素直に『書き換えられているのではないか。』 と疑問を持ったわけです。 裸の王様に出てくる子供と同じですね。今だったら無用な知識が邪魔をして「忤」の意味を懸命に探していたかもしれません。 しかし、当時は十七条の憲法であろうと何であろうと、読めないような文章は駄目、 聖徳太子がこんなお馬鹿な文章をお書きになるはずがないと思いました。

 では「忤」以外に書き換えはないのか、書き換えがあるとすれば、それをどうすれば発見できるでしょうか。 この答えはもう出ています。十七条の憲法を改ざんした人間は裸の王様をだましたペテン師と同じ手口を使います。 彼らはこう言いました。「王様、私たちの作った洋服は、馬鹿には見えない糸で出来ています。」これが「忤」です。

 馬鹿と思われたくない人間は洋服を懸命に見ようとします。すると有るはずもない洋服がぼんやり見えて来るから不思議です。 「忤」も同じです、調べれば調べるほど十七条の憲法の内容が分かった気になります。それこそペテン師の思うつぼです。 まず、子供のように素直になることです。そして、意味のつながらない文、難しい漢字が他にも出てきたら、 これは本当に聖徳太子の文だろうかと疑うことが大事です。

基準としての千字文

  ただ、ここで一つ重大な問題があります。漢字が難しいか易しいかには個人の主観が入ります。 何より『これは自分が知らない字だから書き換えたに違いない』というのでは傲慢そしりを受けてもしかたないです。 ここで欲しいのが誰もが納得できる漢字の難易度の基準です。  

 現代なら、教育漢字(1006字)や改定常用漢字表(2136字)があります。 このような明快な基準があれば、『「忤」は常用漢字にないから難しい字である。この字は書き換えが疑われる』と、 論理を展開することが出来ます。 しかし、聖徳太子の時代と現代では1400年以上の隔たりがあります。 当時の人は「忤」をよく知っていたかもしれません。では、何を基準とすべきか、その答えが千字文です。

千字文とは

 千字文は梁(502 - 549年)の武帝が周興嗣(470 - 521年)に命じ、 皇子の習字の教科書として作らせたものです。 彼は王羲之という高名な書家の文字から重複しない千字を抜き出し、それを4字で1句、それを2句ずつ並べ、計8文字の対句にし、 全体では1000文字250句125対の古体詩にまとめました。千字文の本文及び訳については、他のサイトを見ていただくことにしまが、 内容は天文、地理から人倫に至る森羅万象を含み、脚韻で全体が9段に分かれています。 詩経などの古典からの引用も多く、 完成当初から漢字初学者の教科書として定番の位置を獲得しました。 これは現代に至るまで変わらず、 YouTubeで検索すれば中華圏で制作された千字文の歌やアニメーションが数多くヒットします。  

 日本書記には百済の王仁博士が論語と共に伝えたとの伝承があり、 聖徳太子の時代、多くの日本人が千字文をテキストにして文字の勉強をしたことがわかっています。 まだ、かなも発明されておらず、文盲率が非常に高く、筆や紙など文房具も貴重でした。 文字を学ぼうとする人は、記憶に便利な千字文が定番でした。ですから、当時の人にとって、 千字文にあるものはみな必要な易しい文字と考えても良いと思います。もちろん、千字文で十分かというとそうではありません。 例えば、小学校1年生で学ぶ教育漢字80字の内「一三六七十貝虫犬花竹森山先村町休小校」の18文字は千字文に含まれていません。 小学校漢字や論語の学而などでこれを補正することも考えたのですが、やめました。

 以下、意図的な漢字の増減はせず、千字文だけを比較することにします。 十七条の憲法の第一条と千字文  下の文を見て下さい。一番左の文字を縦に「一曰。以和為貴。無忤為宗。……」と読むと十七条憲法の文になります。第一条は計48文字です。 それぞれの文字の右にある八文字は千字文の句です。千字文はいろは歌と同じで一度も文字が重複しません。  

 ですから、 一つの漢字を選べば千字文の句が1対1で対応します。先に述べたとおり、 4字の対句ですから、4字×2句の8字を右に横書きしました。句が無いのは千字文に無い字です。


曰 資父事君。曰巌与敬。

以 存以甘棠。去而益詠。
和 上和下睦。夫唱婦隨。
為 雲騰致雨。露結為霜。
貴 楽殊貴賤。礼別尊卑。

無 栄業所基。藉甚無竟。

為 雲騰致雨。露結為霜。
宗 嶽宗恒岱。禅主云亭。

人 龍師火帝。鳥官人皇。
皆 釈紛利俗。並皆佳妙。
有 推位譲国。有虞陶唐。


亦 既集墳典。亦聚群英。
少 親戚故旧。老少異糧。
達 右通広内。左達承明。
者 謂語助者。焉哉乎也。

以 存以甘棠。去而益詠。
是 尺壁非宝。寸陰是競。


不 川流不息。淵澄取映。

君 資父事君。曰巌与敬。
父 資父事君。曰巌与敬。








上 上和下睦。夫唱婦隨。
和 上和下睦。夫唱婦隨。
下 上和下睦。夫唱婦隨。
睦 上和下睦。夫唱婦隨。


於 治本於農。務茲稼穡。
論 求古尋論。散慮逍遥。
事 資父事君。曰巌与敬。

則 孝当竭力。忠則盡命。
事 資父事君。曰巌与敬。
理 聆音察理。鑑貌弁色。
自 堅持雅操。好爵自縻。
通 右通広内。左達承明。

何 何遵約法。韓弊煩刑。
事 資父事君。曰巌与敬。
不 川流不息。淵澄取映。
成 閏余成歳。律呂調陽。

旧字体 黨 寶u樂禮榮禪釋讓國舊遙當與鑒辨廣與餘 歳の小が少
新字体 党 宝益楽礼栄禅釈譲国旧遥当与鑑弁広与余 歳
。 


千字文に無い十二文字

 よく見ると興味深いことがたくさんあります。まず、十七条の憲法の文体が千字文そっくりで、ほとんどが四字の対句になっていること。次に「上和下睦」は千字文の句そのままであること。また、ほとんどの語が千字文に一致するのに例の「忤」の文字がなく、「 乍違于隣里」の5文字が連続して一致しないことなどです。  では順に千字文と一致しない「一忤党或順乍違于隣里諧然」の12文字を調べて見ます。  まず、「一」はしかたないですね。千字文に無いのがおかしいほどです。  

 「忤」は予想通りで千字文にありません。次の「党」は新字体に代えておきましたが、元は「黨」で「徒党を組む」等と悪い意味に使われます。この字が出てくる十七条の憲法の句は「人皆有党、亦少達者。」です。これも古来、意味不明で解釈が分かれる句です。ここでは 「人は皆(みな)党(たむら)有り、また達する者少なし」。あるいは「達」を仏教の達人の意味で「さとる」と読み、 「達(さと)れる者少なし」などと読む人もいます。一般的な解釈では、この前の句の「和を大事にしなさい。 みんな仲良くしなさい。」に続いて「人は皆、国や村や派閥などを作って相争います、 しかし残念ながら悟れる人は少ししかいない。」とされています。

 いずれにしても今までこの2つの句はを対句と考える解釈はありません。「達者」に対するのが「有党」ではどうも意味が対句にならない。ところが千字文に文字が有るか無いかで判断すると「達」も「者」も千字文にある語ですが「党」が千字文には無いありません。 ですからこのまま解釈するのでは無く、「党」を別の語に書き換えて、よいが解釈できないかを考えます。 では「党」に換わる字を千字文から探して見ましょう。「少」は否定語と同じ働きをしますから、「達者」と「有○」が対になり、 なおかつこの2語は対義語では無く類義語になります。「人は皆、○は有るけれども、達する者は少ない」ですね。

 さて、皆さんは○にどんな文字を入れるでしょうか。私の考えは「能」です。「人皆有能、亦少達者。」 「亦」は「而」の方がいいかもしれません。読みは「人(ひと)は皆(みな)能(のう)有りといえども、達(たっ)する者少なし」 意味は「人は皆、優れた才能を持っています。しかしながら、その才能を発揮し、その道の達人となる者はほとんどいません。」  

 さあ、どうでしょう。対句としてはこの方が良いですね。では、この文は何を意味しているのでしょうか?この直後に「以是」とあります。「だから」の意味ですから、人が才能を生かし、達人になる、具体的な方策が次の句にあったはずなのです。しかし、残念ながら「或不順君父、乍違于隣里」の10文字中「不君父」の3文字以外は千字文にありません。どうも全部書き換えられてしまったようです・・・。

上和下睦

 さて、実はこのあたりまではずいぶん昔に考えていたのですが、このサイトを開くために改めて千字文を読み返しました。そこで、あっと驚くことを発見しました。
 それは「上和下睦」の句です。千字文の句がそのまま引用されているのはこの部分だけで、この後に。「夫唱婦隨」が続きます。これは「夫が唱え、婦が随う」簡単に言うなら「男が命令し、女が随う」という意味ですね。なぜこのように問題のある句をわざわざ選んだのでしょうか。というのは聖徳太子は推古女帝の摂政です。他の句ならまだしも、この部分は一番触れたくない、また、触れて欲しくない部分ではないのか。普通ならそう考えますね。私も、変だなと思いつつも、聖徳太子は「和」を重んじた方だからこの句を使わざるをえなかったのだろう。そう思っていました。しかし、最近になってその間違いに気づきました。それは聖徳太子は私ごときの常識の範疇には収まらないいうことです。

 一般的な考えだと、先人の文を引用している場合、それを尊重していると考えます。ところがこの常識が聖徳太子には当てはまらない。太子は隋の皇帝を激怒させて平然としている人です。冠位十二階では孟子の義を頭から否定している。だから、千字文から引用しているからといって、それを尊重して引用したとは限らない。むしろ批判的に、これは間違っていると指摘する意味でこの句を引用している。そう考えるべきだったのです。

 すなわち、後の文から推測すると、「上和下睦」の句は肯定的に扱われています。しかし、「夫唱婦隨」の部分は完全に否定されていたと考えるべきです。この辺は一切の妥協無しです。もしも『中国では「夫唱婦隨」かもしれませんが、日本はそうではありません。』と書けば、日本限定の部分否定になるのですが、太子はそうなさらなかった。

 『千字文で「上和下睦」と書いてあるが、これはは正しい、しかしそれに続く「夫唱婦隨」とあるけれどこれは間違った考えだ。十七条の憲法で正しいことを書くから、皆もそれを覚えて間違いの無いようにしなさい。』聖徳太子ならこう主張されたと私は推理しました。

 この視点で改めてこの句を考えた私の結論は「以和為貴、無随為宗」です。つまり第一条は元々、「随」だった語が「忤」に書き換えられて現代に残っているのではないかということです。以前は「同」が「忤」に書き換えられたのではないかと思っていたのですが、「随」の方が3つの長所がある。

 一つ目は「夫唱婦隨」を否定し、推古女帝と摂政太子への批判を封ずる。
 二つ目は「随」の字が「忤」と違って千字文中の文字であるということ。
 三つ目は「随」が「隋」を暗示していることです。

 3つ目については考えなければならないことが多いので、いったんここで中断します。続きはしばらくお待ち下さい。

 

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