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歴史日本語

冠位十二階とはどのようなものか?

 日本書紀によれば、冠位十二階は西暦603年に作られた制度の名称で、その由来は、位を示すのに冠(かんむり)を使ったこと、またその数が12であることから来ています。

 12の位はそれぞれ「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」と呼ばれていました。もちろん大徳が一番上の位で、小徳、大仁と続き、一番下が小智。それぞれの位に色が定められており、冠にその色の布をつけ、自分の位を示しました。位階制度は百済や高句麗にも有り、これらを参考にしたのでしょうが、その役割はずいぶん違うようです。冠位十二階は他国の制度に比べ、名称が非常に短く、また、位階を他に示すのに服装全体ではなく、冠を指定しているのが特徴です。

 また、官位制度には色々な役割がありますが、一番重要なのは、ランク付けです。このようなランク付けは平時においては宮中での席次を決定し、戦時においては指揮系統を明確にします。冠位十二階の官位は平時のランクを示しますが。さらに重要なのはこの官位を誰が与え、また奪うのかということです。大徳は一番上の階位ですが、それを与える人は、さらに高い地位を持っていることになります。もちろんこの階位を与えるのは天皇の役割です。冠位十二階が天皇の権威を高めたとされるのはこのためです。

仁・礼・信・義・智

  次に興味深いのはその名称。大小の区別を除くと「徳・仁・礼・信・義・智」となります。 この言葉は中国の儒教が言う、人間が持つべき5つの徳「仁・義・礼・智・信」から来ています。最初の「徳」はそれ以外の5つの徳を併せ持ったもの、あるいは仏教の徳をあらわすとも言われています。ところが、ここで問題になるのが、「仁」以下の5つの順です。比べてみましょう。

  儒教の五徳    仁・義・礼・智・信

  冠位十二階  徳・仁・礼・信・義・智

 ご覧の通りで、順番がずいぶん入れ替わっています。昔から言われているのが、聖徳太子は「礼」を重視したので「義」よりも高い階位に置いた、というものです。

 私も高校の日本史の授業でもそう先生に教えられました。もう35年も前のことなのですがその説明を聞いて、これはおかしいなと思いました。よく見ると「礼」だけでなく「義」以下の4つの徳が全部入れ替わっています。特に「義」は2ランクダウン。「信」は2ランクアップしています。その時、直感で思ったのが、これは「礼」を重んじると言うよりは、「義」を「信」の下に位置づけたかったのではないかということです。

信を重んじ、義を軽んじた聖徳太子

 ではなぜ、聖徳太子は、「義」を「信」の下に位置づけたかったのか?また、それがどういう意味を持っているのか?

 その時授業に持ってきていた日本史の便覧に十七条憲法が載っていました。ぼんやり眺めていると、第九条に『信是義本』。という言葉に目がとまりました。

 第九条の全文は『九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。』

 この文の解説は別の機会に譲りますが、短い中に「信」が5回も出てきます。この条文が「信」の重要性を述べた文ということは分かります。  

 よく見ると第四条に「礼」もあって、『四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。』(礼は原文では旧字体の禮)
 「礼」が6回出てきます。十七条の憲法でも『礼』が重要視されていることは確認できました。これ以外は「仁」「義」「智」が1回ずつ、「徳」は全く出てきません。これだけ見ても、聖徳太子が、「礼」と並んで、「信」を重んじ、それと比較して、「義」を軽んじたことが分かります。

「義」は孟子の教え

 さらに少し考えが進んだのは一年後の世界史の時間でした。古代の中国の思想家である、孔子、孟子、荀子について学び、孔子が「仁」・孟子が「義」・荀子が「礼」という言葉で自分の思想を表現していることを知りました。孟子の性善説・荀子の性悪説。あるいは孟子の革命思想なども同時に学んだのですが、特に心に止めることはありませんでした。しかし、聖徳太子は孟子の思想に否定的な見解を持っていたらしい、という感想はもちました。

 これはつい最近知ったのですが「孟子舶載船覆溺説『孟子』(←孟子の言行録、書物の名前)を乗せた船は、日本につく前に沈没するという伝説」が昔からあったそうです。もしかすると聖徳太子の孟子嫌い?が形を変えてこのような話になったのかもしれません。

  さて、話を「義」に戻しましょう。漢字はそれぞれの一文字一文字が長い歴史をもっています。長い歴史の中で、漢字の形や意味が次第に変わり、元からずいぶん離れてしまうこともありました。それは勝手に変わってゆく場合もありますが、時として偉大な思想家よって全く新しい意味を付け加えられ、新しい装いで生まれ変わる言葉もありました。 「義」の元々の意味は「羊」を鋸で二つに切って神への犠牲(ぎせい)にする象形文字だったそうです。つまりは神の前での誓いの儀式をあらわしています。ここから約束、契約の意味が生まれました。三国志演義の桃園の誓いの場面で劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを結ぶ場面がありますが、これなどは元々の「義」の意味に近いと思われます。

孟子の義

  ところが孟子はこの「義」という言葉に新しい考えを持ち込みました。それは正義という考え方です。誤解を恐れずに簡単に言えば、一人の人間が神(儒教では天)と契約することです。つまり孟子以前の「義」は人と人が神前で約束をすることなのに対し、孟子の「義」は天と人間が直接契約を意味しました。  

 孟子が生きた時代は戦国時代と呼ばれ、多くの国々が乱立し、覇権を求めて争う時代でした。人格に優れ、正義を実行できる人間が暴虐不正な王を倒して、新しい王になる。  

  彼の理論は新しい王に正統性を与えるとともに、彼らの行動に道徳的な規制を加えるものでした。孟子の思想では天に代わって悪を倒すのは正義。天の代理人として地上に正義を広めることが大義です。そして、以前の「約束」という意味の義は小義と呼ぶことにしました。

  彼は中国各地を巡り、諸王に向かって正義を行いことを説きました。しかし、彼の死後、秦によって中国が統一されると皇帝ただ一人がのみが地上を統べる存在、「正義」の実践者になりました。さらに王朝が交代してゆくときは旧い王朝から天命が去り、新しい皇帝に天命が下されると考えられるようになりました。

聖徳太子の義

 こうして見てゆくと、聖徳太子が冠位十二階で義を低く位置づけた理由がよく分かります。彼は中華帝国の「大義」を認めないと主張しているわけです。ただし義を全部否定したのではなく、「智」よりも上に置いて約束・契約という意味の「小義」は認めているわけです。すなわち  

徳 すべての徳を持つ人、あるいは仏教を極めた人

仁 思いやりのある人。立派な人格者。

礼 礼儀正しい人、あるいは規則をきちんと守れる人

信 信頼できる人

義 約束を守る人

智 賢い人 の順番になります。

冠位十二階の意味

 一般に冠位十二階を定めた理由としては、各地の豪族を序列化すること、人材登用、天皇の権威を高めること等があったとされます。  

 聖徳太子のすごいところはこれを階位の名称にし、冠やその色で区別させたところです。今風に置き換えれば、会長が徳長・社長が仁長・常務が礼長・部長が信長・課長が義長・係長が智長と名前を変えたようなものです。ちょっと想像してみて下さい。絶対にこの順番を覚えねばならないですね。 『我々は中華帝国(当時は隋)の大義を認めないぞ。』といくら声高に主張したとしても、なかなかそれを相手に認めてもらうことは難しい。いや、自分の仲間に理解させることすらやっかいなことです。ところがこの方法ならば絶対にゆるがない。たとえば、遣隋使で日本の使者が中国に渡ったとしましょう。現地の人から、『義が礼より低いのはおかしい』と非難されても、『何を言ってるんだ。常務(礼長)さんの方が係長(義長)より偉いに決まってるじゃないか』となったことでしょう。

 なにかあざとい気がしますが、民衆に法を浸透させることに政治家は心を砕かねばなりません。中国では秦の商鞅が、自分が作った新法の執行を信用させるために、大木を町の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告しました。しかし、だれもがこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、彼は賞金を五十金にします。すると、ある人物が木を北門に移したので、彼は布告通りに、この人物に五十金を与えたとされます。

 商鞅は孟子とほぼ同じ時代の人で紀元前390年生まれ。古代から政治家が単なる理想家として終わらないためには自分の政治をプロデュースする力が必要だったのです。彼は秦を最強国家に生まれ変わらせました。聖徳太子のことを理想主義者のように考えている人もいますが、私はそうは思いません。

聖徳太子のプロデュース力

日本書紀によれば、冠位十二階の制定がは603年12月。憲法十七条が604年4月。遣隋使は607年です。遣隋使の吏員は『俺たちは隋の大義を認めない』という意味の冠を額にして海を渡ったのです。


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