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歴史十七条の憲法

和を以て貴しと為す

 十七条の憲法を本気でお読みになった方はいらっしゃるでしょうか?正直つまらないです。第一条を載せましたのでちょっと我慢して読んで下さい。
「一曰。以和為貴、無忤為宗。人皆有党、亦少達者。以是、或不順君父、乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事。則事理自通、何事不成」

 初句の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」の部分だけが有名ですが、対句になっていますから、「以和為貴、無忤為宗(和を以て貴しと為し、忤(さから)う無きを宗(むね)と為せ)」までがひとまとまりです。はっきり言って駄文です。特に「無忤為宗」がひどい。そのせいか、対句であるにもかかわらず、この句はほとんど知られていません。では「無忤為宗」の何が駄目なのでしょうか。

「和」と「忤」

 「和」は十七条憲法の中で最も重要な語です。冒頭の二句では「和」と対になる語が「忤」になります。ところがこの語はどう考えても変です。「忤」がどういう意味か辞書で調べると、音読みが、「ゴ」訓読みは「さから・う、もと・る」です。元々は「杵(きね)」の形をした呪具の象形文字で、その呪具を使って「(敵の)悪い呪術から身を守る、抵抗する、逆らう」というのがその語源だそうです。どちらかというと非常に狭い意味の漢字のようで、この漢字を使った熟語を見ても、「親不孝」とか「命令に背いて従わない」などの消極的な意味が多いです。

 漢字は一字一字が非常に広い意味を持っています。特に「和」のようによく使う漢字には、平和という非常に大きな意味もあれば、和らぐという個人的の心の状態を表すこともあります。この場合、対になる語によって意味が限定される仕組みになっています。「和戦両様(の構え)」のように「和」と「戦」を対に使うと「和」は「平和」の意味になりますし、「和顔愛語」のように「和」と「愛」を対に使うと「和」は「おだやか・優しい」の意味になります。 では、「和」と「忤」ではどうか。これは本当に意味が小さいですね。「愛」よりさらに小さい。「忤」の対義語だと「和」は「和やか、和らぐ」の意味しか無くなってしまいます。「以和為貴」だけならば「平和は尊いものだ」とか、和を日本と解して「日本は貴い国となす」とも読めるのですが、「忤」がそれらの意味をすべてを消してしまいます。 さらに駄目なのが、「無忤」です。「忤」に否定の接頭語の「無」がついています。これだと、「和」と「無忤=(さからわない)」になり、意味が重なってしまいます。これでは対句の面白味が全くなくなってしまいます。ですから、対句の片方に否定語を付けるなら、似て非なる語を並べなければなりません。「○○しなさい。××してはいけない。」の形です。

対句

 では「無」を含む良い対句の具体例を挙げます。「寧為鶏口、無為牛後」これは古代中国、戦国時代の遊説家である蘇秦が、小国である韓の王に言い放った言葉です。「むしろ鶏口(けいこう)となるとも、牛後(ぎゅうご)となることなかれ」と読みます。「ニワトリの口(小国の王)でありなさい。牛の尻(大国に属する国)になるな。」と言う意味です。対比する語は「鶏口」と「牛後」、両方動物の身体の一部という意味では同じですが、牛の尻の下にひかれる惨めな自分を思い、王は奮い立ち、強国秦と対立する道を選びました。   もう一つ、今度は「和」を含む対句の例を挙げます。「和」の類義語に「同」があります。これを対にしたのが「君子和而不同、小人同而不和」という論語にある句です。意味は「君子は人と協調するが、安易に同調したりはしない、小人はすぐに付和雷同するが協調しない」ということです。否定語が「無」ではなく「不」ですが、対となる語の片方に否定語を含むという形式は同じです。「和」と「同」のように似て非なる語を「和」と「不同」、「同」と「不和」の二重に並べ、すばらしい警句を構成しています。さすがは論語、奥が深い文ですね。

十七条の憲法、第一条の本当の意味

 ここまでくれば、私が何を言いたいかおわかりだと思います。まず、十七条の憲法は書き換えられているのではないか、ということです。どう書き換えられたか今となってはわかりませんが、例えば「以和為貴、無忤為宗」の「無忤」を論語をまねて「不同」に代えたらどうなるでしょうか?「以和為貴、不同為宗(和を以て貴しと為し、同ぜざるを宗(むね)と為せ)」ですね。漢文の専門の方が読んだら、いかにも日本人が作りそうな下手な文だ 、とおっしゃるかもしれません。しかし、この変更でようやく対句らしい句になります。また、意味内容もずいぶんましです。  

 変更前だと「みんな仲良くしなさい。」という意味にしかなりません。ところが、変更後は「みんな仲良くしなさい、しかし付和雷同するのは駄目です。」となります。また、このように変更すると一条の最後の四句「然、上和下睦。諧*於論事。則、事理自通。何事不成。」とぴったり響き合います。  

 ここで、一条の最後の四句について説明します。昔は身分の高い者の命令は絶対でした。右を向けと言われたら、黙って右を向く。ところが、この文はそれを否定します。意訳します。「年上の人・賢い人・責任者は、すべての事(命令)についてきちんと論事(説明)しなさい。そうして(命令を受けた)人自身は、なぜそうしなければならないかを理解しなさい。そうすれば何事でも成功しないわけがない。」というのです。「右向け右」は「同」ですね。なぜ、右を向くのか命令する側がきちんと説明し、命令を受けた側が「よし、みんで右を向こう」とするのが「和」です。

 「以和為貴、無忤為宗」では「和」だけが一人歩きし、第一条は「みんなで仲良く話し合い」という解釈をされることが多いですが、「忤」を「同」に代えるだけで、全体が全く違った意味になる事がわかると思います。 聖徳太子は礼を重んじ、冠位十二階を定め、天皇中心の政治を目指した人です。物事を話し合いで決めようとしたわけではありません。しかし、彼は「和」の根本を説明・説得に置いているわけです。聖徳太子の伝説に十人の人の訴訟を聞き分けたという話がありますが、これこそ太子自ら人々の言葉に耳を傾け、あるいは自らの政治を人々に説明したことを象徴した伝説だったのではないでしょうか。

聖徳太子はいなかったのか?

 上に書いたことは私がごく若かった頃に考えたことです。今では「同」ではなく、もっと違う言葉ではないかと考えています。しかし、聖徳太子が日本書紀でずいぶん悪く書かれている。十七条の憲法も、大事な部分が改悪されているのではないか、という感想は今も昔も変わっていません。

 聖徳太子はいなかったという説を初めて聞いたときも、そんな馬鹿なことは無いと思いました。太子不在説の中心となるのは、政治的な理由で聖徳太子という理想の政治家をねつ造し、それを日本書紀に記録したということです。だったら、なぜ十七条の憲法がこんなに駄文なのでしょう。聖人をねつ造するなら、十七条の文も聖人にふさわしい立派なものでなければおかしいでしょう。

 聖徳太子はいたのか、いなかったのか。ポイントは日本書紀で聖徳太子は良く書かれているのか、悪く書かれているのかにかかっています。私は漢文については細かいニュアンスがわかるほどの力がありません。しかし、専門家によれば、日本書紀は中国人が書いたと上手な漢文と、日本人が書いたと思われる下手な部分があるそうです。中国人が日本書紀の編纂に参加しているならば、なぜ十七条の憲法をもっとましな文にしなかったのか、私には理解できません。

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